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あらすじOutline
播磨和昌は、妻の薫子と離婚することになっていた。原因は和昌の浮気であった。
しかし、すぐに離婚するわけにはいかなかった。娘の小学校受験が控えており、合格するには両親が揃っていることが条件だったからだ。
だから、小学校受験が終わるまでは、和昌と薫子は円満な夫婦を演じる必要があった。そして、その演技の最大の舞台となる小学校の面接試験が間近に迫っていた。
娘の通っている「お教室」で、その面接試験の予行演習が行われることになり、和昌は久々に妻の薫子と会うことになった。この予行演習では、両親だけが参加することになっていた。
そして、その予行演習の順番を待つ彼らに、突然の悲報が届いた。娘がプールで溺れ、病院に搬送されたというのだ。
急いで病院に駆けつけた二人に残酷な現実が告げられた。娘はすでに脳死状態であり、回復する見込みはないということだった。
悲しい現実に茫然自失とする両親に、医師の進藤は、さらにある選択を迫らなければならなかった。それは、臓器移植のための臓器提供の意思があるかないかという選択だった。
娘の瑞穂は、小さいながらも他人の幸せを考えられる優しい子だった。娘は、きっと人の役に立つことを望んでいるだろう考えた二人は、臓器提供を受け入れることにした。両親の意思を確認した進藤は、臓器移植コーディネーターを二人に会わせることにした。
しかし、その臓器移植コーディネーターを娘の病室で待っていた二人に、思いもかけないこと奇跡が起こる。
死んだとされている娘の指が、かすかに動くのを感じたのだ。
このことがきっかけとなり、娘の死を受け入れられなくなった薫子は、ある決断をする。しかしその決断が、薫子や周りの人間たちを更なる苦悩へと導くことになる。
この選択は、母の愛なのか?それとも狂気なのか?
当サイトの管理人より
この「人魚の眠る家」は、『脳死』と『臓器提供』のことをテーマとした小説である。『脳死』に関する海外と日本の捉え方の違い、『臓器提供』に関する海外と日本の現状の違いなど、これらに対して管理人がいかに無知であったかを知らされた。無知であるがゆえに、この小説で書かれている情報がすべて正しいのかどうかも判断できないのが実情である。しかし、「人魚の眠る家」は医学書ではなく、あくまでも小説なので、情報の細かい真偽のほどはそれほど重要ではないと管理人は思っている。
さて、この小説のタイトルがなぜ「人魚の眠る家」なのか?それはプロローグを読むと分かるのだが、『人魚』とこの小説の内容とはあまり関係はないようだ。作者としては、神秘的な象徴として『人魚』という言葉をプロローグで記したのではないかと想像する。